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むかし、ガキの頃。 英語の勉強のためと、図書館で借りた。 一冊の、洋書の絵本。
古びた表紙には、1人の女の子とお月さまのイラスト。 中身は月明かりに浮かぶ影にまつわるお話で。 子供心に、オレは少なからず恐怖を感じたのを憶えている。
いつもは、意識しなくても
”そこ”
にいる存在の影。 側にいる。 君は太陽に照らされていても、月明かりでも、電灯の下でも。 それにたとえ、光がなくなったとしても気づかないだけで。 君は足元でじっと我々を支えているのだから。
まるで、あの世とこの世を繋ぐ命綱のようだ。 そう思う。幼き日のオレ。 話の内容はかなりあやふやで、ほとんど忘れてしまっていたのだけれど。 でも一箇所だけ、憶えているセリフがあって。 今でもその部分は、この胸のどこかで燻り続けている。
まだ、お前は苦しめるのか。神よ。 その言葉に、オレはこれからも罰せられ続けるのか。 神が示す、ある啓示。 それはそのお話の中でも、もっとも重要なモノで。 オレの希望を、いとも簡単に打ち砕いていった。
『――もし、その影がお前から外れてしまったら……』
『 生きてはいけないよ? 』
あぁ……いつも黙って側にいて。優しく見守ってくれた、君。
もし、”君”
がいなくなったら。 オレは……、きっと……。
■ 大事なもの ■ by yuna
相変わらずオレたちは、付かず離れず。そんな関係。 恋人と呼ばれるようになって、かなりの月日が経つというのに。 でも、実際のオレたちは昔のまんま。 彼女がオレの世話を焼き、オレは勝手気ままに飛んで行く。 その居心地のよさは更にオレの欲望を増長させていき。 いつしか、それがオレに大切な何かを見えなくさせていった。
良く言えば、彼女は空気のような存在。 でもそれはオレから見たひとつの世界観であって。 あの頃、オレには彼女の葛藤など理解する余裕はどこにもなかったのだ。
……だから、あんなことに。
「お父ちゃんの知り合いから見合いの話があるんやけど……どうしよ、平次」
オレを見つめる、不安げな眼差し。 きっと、あれが彼女からの最後の警告。 でもオレはそんなことにも気付かず、ただ苛立ちだけを覚え彼女にこう言い放つ。
「自分のことは、自分で決めーや」
オレという存在がありながらそんなことを言うなんて。 見合いやて?アホか。 お前は黙ってオレの側におったらええんや。
その時は未来がどうなるなんて考えもせずに、本気でそう思った。 だから。 まさか本当に彼女が見合いをして結婚してしまうなんて。 思いもしなかったんや……。
ただただ、何も言えずに彼女を見送った。 こんな時でもオレは意地を張り続け、彼女を引きとめようともしなかった。 「行くな」
なんて。 いまさら言える訳もない。
せやな……。 こんなオレといるより、アイツは幸せになれるかもしれない。
最終的には彼女が決めたこと。 受け入れなければ。
結婚式は、滞りなくとりおこなわれた。 もちろん、オレは参加せえへんかった。 行けるわけないやろ? どんな顔をして。 惚れた女を見送れるというのか。
2人が、最後に交わした言葉は。 前日の、夜の電話だった。
『なんでこうなってしまったのだろう?』 『どこが間違うてたんや?』
繰り返される、自問自答。 聞きたくて。 でも言えなくて。 オレはそんな言の葉を、無理矢理飲み込むと。
「……絶対、幸せになれや」
受話器の向こうで頷く彼女。 オレは、去りゆく
”影” に、サヨナラを告げた。
***
――
それから10年後。
あれからのオレは、何かにとり憑かれたように、がむしゃらに仕事に打ち込んだ。 結婚もした。 親父の知り合いの娘と。
愛なんてなかった。 しかし。 ただ、幸せにならなければと思った。
だが、”人生一瞬先は闇”
という言葉は的を得ていて。 順調だった仕事は、オレのヤル気が失せたせいか世間に見放されたせいか。 掴んだはずの栄光は、音を立てるように崩れ落ちていった。
生活はみるみるうちに荒んでいき。 そして、離婚。 いや、別れた原因は仕事のことやないな。 妻とは、最初から上手くいっていなかったのだから。
妻は、結婚してすぐオレが浮気していると疑っていた。 毎晩オレに詰め寄り、衣服をチェックし、時には尾行までして。 お前の思い過ごしや、と何度言っても聞く耳を持たず。 オレは次第に家に帰ることもせず、事務所へ寝泊りするようになっていった。
浮気なんか……するはずないのに。 彼女は、もうここにはいないというのに。
だが、別れてようやく気付いたことがある。 オレの心は常に彼女の元にあったことを。 それを、妻は側で痛いほど感じていたんだということを。
初めから、オレには幸せになることは出来なかったのだ。 そして、誰かを幸せにすることも。
なにもない。 今のオレには、もうなにも。 地位も、名誉も、そして帰る場所さえも。だ。
やっぱり、ムリや。 オレには。 彼女以外……人を、愛することは。
探偵を辞め、警備の仕事に就いた。 なんでも良かった。 食うことさえ、できれば。
もう幸せになんて、なれやしない。 君が、いない。
この時オレは。 初めて己の不甲斐なさを知った。
***
12月24日。
日勤の仕事を終え、夜勤と交代の時間。 オレは私服に着替えると、会社のあるミナミの繁華街へその身を委ねて行った。 イルミネーションがキラキラと輝く。 眠らない街、大阪。 ふと周りを見渡せば、クリスマスで浮き足立つ顔・顔・顔。 オレは、『シフト、夜勤にしたらよかったなぁ』
なんて思いながら、行く当てもなくこの街を彷徨い歩いた。
その時。
『ちょっとまってーや平次!』 「――?!」
喧騒の中で、懐かしい声が聞こえ思わず振り向いた。 これは……現実?それとも空耳?
『これ美味しいんやで?雑誌に載ってたやつ』 『こんどはこの映画、見たいなぁ〜』 『もう!遅れるんやったらちゃんと連絡してよ!!』
どこからか、彼女の声が聞こえてくる。 オレの周り。 四方八方から、その存在が湧き出してきた。
(あぁ……そういえば) あそこにもここもに、彼女との思い出がいっぱいだったよな。
君は、今どうしてる? クリスマスが大好きだったよね? やっぱり。 君を奪った男と、幸せに過ごしているのだろうか。
何故だか分からないけれど、無性に会いたくなった。 今まで一度も会おうとは思わなかったのに。 溢れ出した気持ちは、もう止まらない。 オレはいつもの岐路をUターンして、何かを求めるように歩き出した。
気がつけば、オレは見知らぬ駅に立っていた。 風の噂で聞いた、彼女が住むという街に。
(いまさら……なにを、オレは)
今日はクリスマスやど? 知らぬ男と幸せな暮らしをしている彼女を見て、何になるというのか。 しかし、オレの足は動かない。引き返そうともしない。 ただ導かれるように、静かな住宅街を彷徨うように歩いていた。
もし、会ったら。 会えたとしたら。
そこまで考えて、ふるふると頭を振った。 どこに住んでいるか、もしかしたらもうこの街には居ないかもしれないのに。 でも……万が一、万が一その姿を見れたとしたら。 その時は。
「――っ?!」
そんな事を考えながら歩いていたら、目の前に。
彼女が。いた。
10年ぶりに見た彼女は、ちょっと痩せたような気がした。 髪も、あの好きだった艶やかな長い髪ではなくて。 短く、簡素に切られていた。
こっちには、まだ気付いていない? オレは慎重に身を潜めると、遠くから彼女の後を追った。
彼女の住まいは、それは質素なアパートだった。 (こんなところに旦那と……?) 意外な現実に、オレは眉を顰める。 でも。 あの歩き方も、後ろ姿も、昔となにも変わらなくて。 オレの知っている君のままで。 不覚にも、涙が出そうになった。
こんな小さな街で。 こんな小さな家で。 君は暮らしているんだね。 元気な姿を見て、ホッとしたよ。 本当に、本当に、ホッとしたよ。
オレはどうしようもない男だったけど。 願うなら、片隅でもいい。 君の心のどこかに、住まわせてくれないか? それだけでいいから。 それだけで。
もう……充分やな。 オレには過ぎたクリスマスプレゼントや。 もう、二度と会うこともないやろう。 君の姿はこの胸に、鮮やかに刻み込まれたのだから。
口元に笑みを浮かべ、踵を返す。 帰ろう……家へ。 君への罪を償いながら、これからを生きていくために。
その時、後ろの方で息を飲む音が聞こえた。 振り返る。 そこには目を見開き口に手をあてた彼女が、こちらを凝視しながら立ち尽くしていたんや。
「……なん…で…?」
みるみるうちに、涙が溢れる瞳。 あぁ……オレの姿を映してるんだね?
何年ぶりだろう。 オレはその艶やかな黒い瞳に吸い込まれるように、近付いて行った。
「会いたかったんや……ずっと……」 「アタシは、会いたくなかった」 「オレは、会いたかった」
逃げられないように、その腕を取る。 折れそうなその感触に、オレは驚きを隠せなかった。
「どないしたんや、こんなに痩せて」 「……」 「苦労しとるんか?」 「そんなこと……」 「じゃあ、なんでこんなとこ住んどるんや!」
彼女の後ろの、古びたアパートに目を向ける。 君は俯いたまま、辛そうに唇をかみしめていた。
オレは改めて彼女の姿をまじまじと見つめる。 まえから派手では無かったけど、それでも清楚に手入れしていたあの頃の姿は陰を潜め。 全くといっていいほど、化粧っ気のないその顔。 掴んだ腕に目をやると、その先にはひび割れてボロボロになった手があった。
(あんなに綺麗な手だったのに)
そして更にその先。 あまりの動揺に、郵便受けから取ってそのままだったのだろう。 その手に持っていた新聞と手紙を見て。オレは、唖然とその場に立ち尽くしてしまった。
「おまえ……まさか?」 「――!!」
オレの視線に気付き、強張ったその身体。 次の瞬間。ヤバイ、という顔をして顔を背けた。
「……遠山……、やて? おまえ…離婚、しとったんか?」
その、手紙のあて先に書かれた名前。 それは懐かしい響き溢れるモノだったが、反対に悲しみを持ち合わせたモノでもあった。
「どうして今まで黙っとったんや?
なんで……実家へ帰らへんかったんや」 「そんなこと……出来るわけないやん」 「オレに一言いうてくれたら…」 「アホ言わんといてっ!!!」
それまで俯き震えていた彼女が、一気に顔を上げて大声を上げる。
「アンタが……アンタに……何を今更言う必要があるっていうんよ!
アタシを……」
――
アタシを棄てたんは、アンタなんやで?――
言外に、彼女の目がそう言っているように思えた。
あぁ、そうや……そうやな。 お前を切り離したのも、手繰り寄せなんだのも。 すべて、このオレ。
震えるその肩に、そっと手を置く。 ピクリと動いた彼女は、身体を強張らせた。 でも、それを払う気配も感じられなかった。
「確かに、オレには何にも言える権利はない。お前にも会わせる顔もないし、会うつもりもなかった。でも……」
オレから顔を背けて唇を噛みしめる君。 溢れ出す愛しさに眩暈すら感じ、その手に、グッと力を込める。
「今、幸せなんか?」
ずっと気になっていたこと。 そして今この目で見た彼女に愕然とした気持ちをぶつけるように、オレはそう尋ねた。
「幸せ、や」 「嘘つくな」 「ホンマや。ひとりでも、ずっと」 「なら、何でさっきからオレの目を見いへんのや!?」
瞳が、大きく見開かれた。 視線が、初めて間近で絡み合う。
「もっと早ように知ってたら……」
愛してる。 そう言って、オレは戸惑う彼女を無理矢理抱きしめた。
「はなしてっ!!」 「離さん」 「誰か呼ぶで!!」 「呼ばさへん……」
腕の中でもがく彼女。 そんな行為を無視するかのように、オレは唇を塞いだ。
「……っふ……」 「……まだや」
少し離した唇の隙間から、苦しげに息を吐く。それを追いかけるように、舌を割り入れ吸い上げた。 なんて、甘いんやろう……。 忘れていた思い出が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。 求め、焦がれた存在に。オレはただ自分をぶつけていった。
ようやく手放した彼女は、腕の中でぼんやりと放心状態に陥っていた。 その手は、オレの服をギュッと握りしめて。
「……すまん、いきなりこんなことして。……でも、オレ」 「……どう、なるん?」
白い指が、オレの唇をなぞる。
「これからアタシ達、どこへ行けばええの?」
取り戻せない過去。 何もない、現実。 たとえ結ばれたとしても、いまさらどうなるというのか。 分からない。 でも、ひとつだけ ”今”
のオレが知っていることがある。
それは、過去のオレに足りなかった、真実。
「どうなる、かなんてオレにも分からへん。多分、天国じゃないことは確かや。
でも、側にいて欲しいんや……ずっと、オレの側に……」
―― 和葉
――
彼女は諦めたように、オレの胸に寄りかかった。 オレは、もういちど彼女にキスをして抱きしめる。
『いちど離れた影は、にどと一緒になることは出来ない……』
どこからか聞こえる、あの懐かしい神の声。
抱きしめた感触からは、温かさも何も感じられなくて。 オレは絶望の中。 真っ暗な空を、ただ見上げていた。
*****
目を覚ますと、目の前には馴染んだ天井が映し出された。 腕の中には、オレと同じく何も纏っていない長い髪の和葉が、穏やかな顔をして眠っている。
(……今のは、夢?)
やけにリアルな映像だった。 まだ、心臓がドキドキと大きく鳴り続けているのを感じる。
ふと窓を見ると、カーテンの隙間から月が垣間見える。 オレはその光景に、幼い頃見た絵本の情景を思い出し。 そっと、和葉の顔を見つめた。
――本当に大切なもの。 オレは、それを手放す日がくるのだろうか?
あれは、予知夢? それとも、警告?
オレは隣で眠る、”大事なもの”
を胸に引き寄せると。 その柔らかな髪に顔をうずめ、こう呟いた。
「……愛してる」
それは。 オレがまだ一度も口にしたことのない言葉。
まだ、間に合うのか? 打ち寄せる不安に、そう問いかける。
でも……次に目覚めた、その時には……。
オレは答えのない問いかけを、永遠に繰り返し続ける。
月明かりだけが。 2人の影を、黙って映し続けていた。
END
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「ラストの投稿だというのに、暗いものですみません。でもせっかく裏部屋があるので挑戦してみました。エロじゃないけどね(苦笑) ダークだけど、私的にはhappy
endのつもりです」
by yuna
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