鏡幻月華 〜 十三の夜 〜後編 |
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冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して、間接照明だけの薄暗いリビングのソファに身体を沈める。 周囲の気配に神経を配りながら、冷たい水を一口喉に流し込んだ。 和葉は眠ったばかりやから、暫くは目を覚まさんやろう。 ……アレは工藤やな。 水を一本飲み干した時、微かな足音が聞こえてきた。 足音の主が客間との途中にある便所を通りすぎたのを感じて、リビングの照明を点けた。 「よお」 「女房放り出していいのかよ」 「工藤こそ、朝までしっぽりやなかったんか?ちゃんと満足させたらな、姉ちゃんに捨てられんで?」 「オメーに言われたかねえよ」 「オレは工藤に呼ばれたから、甘えてくる和葉宥めて待っとったんやで?」 「別に呼んでねえ」 「風呂勧めた時、意味深な視線送ってきたやろが」 キッチンからグラスとツマミを持ってきてローテーブルに置く。 さっき風呂を勧めた時、姉ちゃんの後ろからやけに真剣な視線を飛ばしてきた工藤。 下手に篭ん中うろつかれても厄介やから、念のためにココで張っといて正解やったな。 「まだ宵の口やし、たまにはゆっくり呑もうや」 冷蔵庫ん中にはビールも冷えとるが今はゆっくりと味わう酒がええやろうと、ウイスキーやブランデーのボトルと氷を満たしたアイスペールにミネラルウォーターをツマミの横に並べてやった。 「婚約おめでとさん」 「何だよ、改まって」 「『コナン』やった頃を知っとるからなぁ。工藤のためにも姉ちゃんのためにも、何回でも祝ったりたいやん」 「……あん時はオメーにも随分世話んなったよな」 「好きで首突っ込んどったんやし、終わりよければ全てよしやろ?」 酒はセルフサービスやと空のグラスを工藤の前に滑らせる。 誰が幸せんなろうと不幸んなろうと『篭』に関係せえへん限り別にどうでもええが、ここは祝ってやる場面や。 ……姉ちゃんを欲しがっとる和葉のためにもな。 「何か、視線を感じるんだよな」 グラスを空けた工藤が2杯目を注ぎながら首を捻る。 相変わらず工藤は鋭い。 「さっきは感じなかったんだよな。でもよ、何か見られてる気がすんだ」 「妖怪でも居るんとちゃうか?何せ、ココは『京都』やからな」 軽く茶化しながら工藤の正面にあるテレビを睨み付ける。 電源を落した暗い液晶に映り込む工藤の顔に、一瞬白いオンナの影が重なって消えるんが見えた。 「京都って言えば、桜だよなぁ。昔オメーから聞かされた初恋話、忘れちゃいねえぜ?」 「古い話、蒸し返すなや」 「よかったなぁ、初恋の姫君をGET出来て」 「そのセリフ、聞き飽きたわ。ついでにそっくりそのまま返したる」 他愛もない会話。 こんな話をするために、わざわざ工藤がベッドを抜け出して来たワケやないやろう。 「なあ、服部」 4杯目を空けた工藤が、酔いを微塵も感じさせへん口調で話を切り出した。 「何や?」 「オメー、大学卒業したらどうすんだ?刑事になんのか?」 これが本題か。 オレらは今度の春に4回生になる。 早いヤツらはもう就職先の目処がついとるし、ツレらん間でもそんな話は頻繁に出とるから予想は出来た。 「オマエは?」 「俺は……」 「工藤に会社員は似合わんし、刑事てタイプでもないし、毛利のオッサンとこに弟子入りか?」 毛利のオッサンから出された結婚の条件を満たすための早道を探しとるやろう工藤は、オレの誘い水にさらりと乗ってきた。 「俺は探偵として独立するつもりだ。今はその下準備してる。オメーはどうなんだよ?」 「せやなぁ……前は刑事んなるつもりでおったけど、時間も不規則やし和葉ん事もあるから在宅ワークでもしよかて思っとる。今も投資やら何やらでソコソコ稼いどるしな」 今のオレには就職する気はさらさらない。 大学を卒業したら、利用価値のある必要最低限の繋がり以外は断ち切って、極力『外』とは係らんようにするつもりや。 オヤジや遠山の親父さんはあんまりええ顔はせえへんやろが、成人した男が親にも頼らずに女房を養っていけるんなら口を出して来る事はないて言い切れる。 ただ、工藤の出方次第では、その方針を変えたってもええ。 和葉に姉ちゃんをくれたる約束やからな。 「勿体ねえ」 「そう言われてもなぁ。和葉一人にしとくのは心配やし、勤務が不規則やと家政婦雇うにも契約が難しいし、いつまでも親に頼むワケにもいかへんし……」 「いっそのこと、一緒に探偵事務所開かねえか?近くに住むとか同居するとかすればよ、オメーが留守の間は和葉ちゃんは蘭といればいいし」 ああ、工藤ならそう言うと思った。 こと姉ちゃんの事んなると周りが見えんようになるし、利用出来るモンはとことん利用しようとするんが工藤や。 探偵として独立しようとしとる工藤が、フリーんなるつもりでおるオレゆう絶好のアイテムを逃すハズはないから、誘いがかかるかもしれへんとは思っとった。 「工藤……」 「何だよ」 「オマエ、手っ取り早く姉ちゃんとの結婚の条件満たすためにオレを使うつもりやろ?」 「まあな」 「即答かい!」 「オメーにとっても悪い話じゃねえと思うぜ?『探偵』に未練はあんだろ?」 『探偵』には大して未練はないが、この誘いはオイシイ。 工藤の懐に入り込めば、姉ちゃんとの接触の機会も増えるからな。 せやけど、ここで食いつくワケにはいかへん。 飽くまでも工藤の押しに屈してという風を装って、ほんの微かな疑問すら持たれんようにせなアカン。 「ないて言えば嘘んなるなぁ」 「ならいいだろ?」 工藤がカラダを乗り出してくる。 それでも、今はまだ迷っとる事にしとかなならん。 ここで一旦誘いを蹴っても、関西方面に強力なコネやツテがあるオレを探偵としての基盤を早く固めたい工藤が手放そうとするハズはないやろし、もしこの話がポシャったとしても不都合は何もない。 「ええ話やと思うけどな、卒業までまだ1年あるんやし、少し考えさせてもらうわ」 「ああ、そうだな。遊びじゃねえんだし、急に決められる事じゃねえな。けどよ、いい返事、期待してるぜ?」 グラスを掲げる工藤に合わせてオレもグラスを上げて、琥珀色の液体を飲み干した。 工藤と顔を合わせる時間が増えるんは疲れる話やけど、和葉が姉ちゃんを欲しがっとるんやからしゃあない。 それに、探偵事務所はオレたちにとって世間に対する中々都合のええ隠れ蓑にもなるやろう。 「氷取ってくるわ」 「すまねえな」 いつの間にか溶けとった氷を新しいモンと取り替えようと、アイスペール片手にキッチンに向かう。 工藤との会話に神経を集中させとったせいか、迂闊にもリビングのドアが開いたのに気づかんかった。 「かっ和葉ちゃん!?」 工藤の裏返った声に振り向くと、和葉が工藤に抱きついとった。 万が一にもと思っていつもは滅多に出さないパジャマを着せておいたのが唯一の救いや。 「へいじぃ……」 どくんっと心臓が跳ねた。 和葉が眼を開いとる。 寝惚けとるのか薄く開いた眼を工藤に向けとる。 工藤があの義眼を覗き込もうとする。 「和葉っ!何寝惚けとるんや!」 アイスペールをシンクに放り出して、工藤から和葉を引き離す。 まだ目が覚めきらないのか、霞のかかったような義眼がオレを捉えた。 「へいじぃ……」 甘えてオレの首に腕を回してくる和葉を膝に乗せて、工藤の様子を探る。 和葉のために金を積んで作ってやった義眼。 まだはっきりとはわからんから断言出来ひんが、この義眼が和葉の作る『人形』に関係しとるかもしれへんから他人がいる時には閉じさせとる。 何度も言い聞かせたから和葉も十分に気を付けとる筈なんに、篭に帰ってきた事で気が緩んだんか? 工藤は、何かに魅入られたかのように固まっとる。 もしかしたら、オレが和葉を引き剥がした事にも気付いとらんかもしれへん。 だが、それ以上の変化は見られんようや。 「おい、工藤」 耳に届くようにはっきりとした声で呼び掛けると、工藤ははっとしたように目を見開いた。 ゆっくりとオレの方に顔を戻す。 その瞳ん中に、刷毛で撫でたくらいの極薄い情欲の色が見えたんはオレの気のせいか? 「コイツ、寝惚けたらしいわ。驚かしてスマンな、工藤」 寝入ってしもた和葉を抱いたまんま探るようにその瞳を覗き込んでも、いつもの冷たいくらいに落ち着いた色しか見当たらん。 「妬くなよな、服部」 「別に妬いとらん」 からかうように笑う工藤は、いつもと変わりない。 だが、オレの前ではガードの緩むコイツも、本心を隠すのに長けとるから油断は出来ひん。 「それにしても、オメー、家ん中では随分と見せ付けてくれんじゃねえか」 「ほっとき」 「いや、徹底的にからかいたいね。あの服部が和葉ちゃん膝の上に乗せてんだからよ」 晩メシん時の仕返しか、工藤はここぞとばかりにからかい始める。 それに反発して見せながらじっと様子を見る。 心配はいらんようにも思うが、暫くは観察が必要やろう。 オンナは鋭いから、その辺は和葉通して姉ちゃんに探り入れればええ。 「コイツ、寝かせてくるわ」 「ああ、じゃあ、俺らも寝ようぜ。グラスは片づけておくからよ、酒は任せる」 「ええ旦那になりそうやな、工藤」 「当然だな」 洗い物は工藤に任せて、和葉を寝室に運ぶ。 リビングに戻って手早く片づけを済ませて、恐らく夜中に喉が渇くやろう工藤にミネラルウォーターを持たせた。 「ほんならな」 「おう」 リビングの明かりを消して、客間に向かう工藤を背中を見送った。 |
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