櫻闇の迷宮

一、

街灯もない、ただひたすらな闇。
その中で、重そうに花をつけた櫻が、朧月に照らされてぼんやりと浮かび上がっている。

「綺麗やね……」

和葉が小さく呟いた。

「せやな……けど……」

――何や、恐ろしい……。

そう続けようとして、平次は口を閉ざした。
それに気付いた風も無く、和葉はうっとりと、まるで魅入られたように櫻を見上げている。

其処此処で競うように咲く染井吉野。
日の光を浴びて華やかに咲き誇る櫻は、月明かりの元では、まるで違う貌を見せている。
山桜の可憐さとも、枝垂桜の艶麗さとも違う、染井吉野だけが持つ妖しく淫靡なまでの妖艶さ。

「平次……」

櫻の幹に凭れながら、和葉が手招く。
誘われるままに近づいた平次の首に、和葉は甘えるように両腕を回した。

「平次……して?」

甘い響きを持った短い言葉。
その意味する処を読み取って、平次が和葉の耳元に唇を寄せた。

「オマエから誘って来るなん、珍しいやん?」
「……へんかな?」
「いや、嬉しいけどな……」

戯れるように耳朶を甘噛みされて、和葉の肩が小さく跳ねた。

「なら、帰るか?」

平次の問いに、和葉はゆっくりと首を振った。

「……ここで、して?」
「ここで?」
「うん……ここで……」

――櫻の下で……。

「……アカンかな?」

切なげに揺れる瞳に引き寄せられるように、平次は、微かに震えていた和葉の唇を塞いだ。
そのまま、ブラウスの裾から手を差し入れ、滑らかな肌を弄る。

――我侭言うてゴメン。でも、これで終わりにするから……。ちゃんとあの言葉を言うから……。

性急な愛撫にもかかわらず、和葉の身体はすぐに熱を帯びはじめた。

「……っは……んっ…」

その熱を逃がすように、和葉が息をつく。
平次の肩越しに見える櫻。
ほの白い花弁があるかなしかの風に乗り、天に昇るかのように空に広がる。

「へ……じぃ……」

――アタシ、櫻になりたかったんよ。

ただ一時咲いて散る櫻は、その儚さと美しさで人の心を魅了する。
そして、季節が巡る度に、繰り返しその姿を焼き付けていく。

――櫻に…なりたかった。

春が来る度に、平次の心の中で鮮やかに花開く櫻。

和葉がその存在を知ったのは、去年の春。
その時に感じた痛みは、今も小さな棘のように和葉の心に残っている。
それでも、平次が選んでくれたのは自分だったから、いつかその痛みも薄れていくのだろうと思っていた。
けれど、そんな日は来ないのだと、和葉は悟るしかなかった。



平次が『櫻を観に行こう』と和葉を誘ったのは、先週の日曜日。
気だるい幸福感に浸りながら、甘えるように平次の肩に頬を摺り寄せて、和葉は『夜櫻が観たい』とねだった。
その時に、和葉は何気ない風を装って、ずっと心に仕舞い込んでいた問いを口にした。

『初恋の人には会っとるん?』

手慰みに和葉の髪に指を絡めていた平次は、その問いに一瞬動きを止めた。
平次にしてみれば、今更な問い。
けれど、それを素直に教えてやるのも気恥ずかしくて、平次は低く喉を鳴らした。

『ああ、会うとるで?』
『…これからも、会うつもりなん?』
『やっと会えたんやで?そうそう簡単に手放せんやろ?』

笑み含んだ声ではあっても、それが平次の本心からの答えだという事は、和葉にも真っ直ぐに伝わった。
ただ、二人の間にあるほんの僅かな認識の違いが、和葉の身体から熱を奪う。
平次の真意がどこにあろうとも、和葉にとっては、それは『唯一人の女』として見てはもらえないと言う事なのだから。



「……和葉」

耳を擽る熱く掠れた低い声。
応えるように、和葉の唇から甘い悲鳴が漏れる。

緩やかに忍び寄る風が闇を揺らし、身震いするように、櫻が花を散らす。

薄い小さな花弁は、まるで想いを重ねていくように少しずつ降り積もり、いつの間にか、平次の心の奥底を埋め尽くしてしまっていた。
そして、今この瞬間も、平次の心をその薄紅色の花びらで覆い尽くそうとしている。

それは、平次にとっては、甘美なもので。
けれど、和葉にとっては、苦いもので。

秘められるべき行為は、櫻の闇に沈み込む。

ただ、甘く。
ただ、苦く。








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phot by 月桜迷宮 さまよりお借りしました