「 雨隠の館 」 第 七 話 |
どんっという鈍い音と同時に、呪縛されたように動けんかった身体の自由が戻った。 「和葉っ!!」 一動作で起き上がる。 和葉は、大きな姿見の前で蹲っとった。 「大丈夫か、和葉?」 「……うん、だいじょうぶ……」 苦しげに顔を顰めて頷く和葉を、鏡から引き離す。 荒い息を繰り返す和葉は、オレの良く知るいつもの和葉に戻っとった。 改めて、鏡を見やる。 鏡は、幾つか皹は入ったものの、割れてはいない。 ただ、白く濁っとった。 いくらオンナの力やいうても、大人が思いっきり体当たりしたのに、割れない鏡。 ついさっきまで、まるで磨かれたばかりみたいに曇り一つなかったんに、2つ3つ皹が入っただけで白い絵の具混ぜ込んだみたいに濁って、何も映さなくなった鏡。 飛散防止フィルム貼ってあったから割れなかったんやとか、何か液体を使った鏡やったから皹が入って化学変化起こして濁ったんやとか、思いつく限りの理屈を並べてみても、自分を納得させられる答えは出てこんかった。 「平次……ここ、イヤや」 力の入らん手で、和葉がオレのシャツを掴んだ。 血の気の引いた白い唇が、小さく震えとる。 オレから見えたんは、和葉が鏡に体当たりかましたとこだけ。 和葉が鏡に何を見たんか、何を感じたんかは、オレにはわからん。 わかるんは、あの異様な状況を終わらせてくれたんが和葉やいう事。 せやからて、何があったのか今の和葉に訊くんも酷や。 幸い、いつでも動けるようにて、休ませた時も靴は履かせたままやったから、このまま動いても足元には一応不安はない。 鏡が割れんかったからか、打撲以外に怪我らしいモンもない。 「立てるか、和葉?」 「……うん」 ベッドに放り投げてある上着を取ってやりたかったけど、それよりも和葉が安心出来る所に移動する方が先や。 この際、荷物も後でええし、最悪取りに戻れなくても仕方ない。 「玄関……やな」 「うん……」 この館の中でオレらが知っとるんは、この部屋と1階の窓のない部屋と玄関。 ほんの一部しか知らんのに全てを判断するなん乱暴やけど、この館の住人やいうあのオトコに案内された部屋で起きた事を考えれば、他の部屋を選ぶよりも少しでも勝手のわかる玄関の方が落ち着くはずや。 「行くで?」 和葉を促して、ドアの横の壁に張り付く。 細くドアを開けてじっと息を殺して外の様子を窺っても、特に何の気配も感じない。 取りあえず大丈夫やろうとほっと息をついて、部屋を出るために和葉の手を取ろうとした瞬間、いきなりドアが大きく開いて何かに思いっきり背中を押された。 「うわっ!」 「へい……」 転びそうになったオレの後ろで、廊下に響くような音を立ててドアが閉まる。 慌ててドアを開けた時、そこに和葉の姿はなかった。 「和葉!?」 オレが何かに突き飛ばされてから、体勢を立て直してドアを開けるまでせいぜい数秒。 この部屋から出たがっとった和葉が自分から隠れるなん絶対にないが、唯一隠れられそうなベッドの下をカバーを引っぺがして覗き込む。 子供が入るんがやっとの狭い隙間はうっすらと埃が積もっとって、ここ暫くネズミ1匹通っとらん事を証明しとった。 せやったら、他に何か仕掛けが……? 忍者屋敷みたいに隠し扉でもあるんかと壁に目をやって、思わず息を呑んで立ち尽くした。 皹が入って白く濁っとったはずの、鏡。 こんな一瞬で修理も張替えも出来るワケないその鏡が、何の歪みもなくオレの姿を映し込んどる。 常識では計り知れない現象。 それを目の当たりにして、オレの背中を冷たい汗が伝った。 |