「 雨隠の館 」 第 十九 話 |
『 懐疑の多い男よのう そに申すならそちが見定めるがよかろう じゃがそやつに幾許の傷でも残してみよ そちも小娘も我が直様喰らうてやるぞ 』 オンナの紅い唇が、ゆっくりと笑みの形に変わる。 美人なん、それこそあちこちで見慣れとるオレの目から見ても『綺麗』なオンナやのに、いや、それやからこそ、その笑みには背筋が凍りつきそうなほどの凄みがあった。 気ぃ弱いヤツやったら、それこそ固まったまま動けなくなるやろう。 せやけど、今のオレには効かん。 「ほな和葉返して貰うで」 オンナを無視して、市松人形の前に膝をつく。 人形は椅子に座っとるから、オレが少し見上げるような格好になった。 「戻って来い和葉」 どうしたらええんかなん、わかっとったワケやない。 ただ、自然に身体が動いて、市松人形の綺麗に紅のひかれた唇にキスしとった。 この人形も、昔はきっと人間のオンナやったんやろう。 いつの時代に生きてたんかはわからんが、家族も恋人も友人たちも、彼女を知る人たちは皆とうに亡くなって、ただ1人時間に置き去りにされたようにその姿だけを残されてきた哀れなオンナ。 そう思うと、3階のあの部屋で見た時のような気味悪さは無かった。 「オレんとこに戻って来い和葉」 和葉を抱いたまま、人形に語りかける。 どこを見とるんかわからんガラスの瞳が、オレを見下ろしとるように感じた。 オレが他のオンナにキスしたて知ったら、和葉がどんな反応するやろか。 こんな時なんに、ふとそんな事を思いついた。 相手が人形やからとか非常事態やからとか、とてもそんな言い訳が通じるとは思えん。 せやけど、ちゃんとオレんトコに戻って来るんなら、平手の1つや2つは甘んじて受けたるわ。 腕ん中の和葉を、ぐっと抱き締める。 人形のガラスの瞳が、涙で濡れたみたいに光を弾いた。 次の瞬間、人形はまるで乾いた砂山を風が吹き散らすように、さらさらと崩れて消えた。 残ったのは、古ぼけた振袖とガラスの瞳。 「平次……」 腕ん中から聞こえた小さな声に抱き締めてた力を緩めると、和葉が目を覚ましとった。 「ありがとう……」 「おう」 たったそれだけの会話やけど、気持ちはしっかり伝わっとると思う。 和葉は取り返した。 あとはここから出るだけや。 不安があるとすれば、あのオンナが素直に教えるかどうか……。 頭ん中でこの後の事を考えとった時、オレの首に腕を回した和葉がそのままで固まった。 和葉の視線は、オレの後ろに向かってる。 何があるんや? 和葉を抱いたまま、ゆっくりと振り返る。 オレの後ろ、ついさっきまでオンナがいたハズの場所には、奥に続く深い闇が広がっとった。 息を殺して、地の底から染み出るような闇を見やる。 松明の灯りも届かない闇の奥から、ずるり、と何か重く湿ったものが動く気配がした。 「和葉……立てるか?」 「……うん」 抱いていた和葉を支えて、立たせる。 眠っとった身体を目覚めさせるように軽く手足を動かした和葉は、すぐに自分の足でしっかりと立ち上がった。 「大丈夫、走れるよ」 オレの考えてる事がわかったんやろう。 足元を確認するようにしとった和葉が、促すようにオレの手を握る。 その小さな手を握り返して、さっきあのオトコに案内された道を走り始めた。 ここはあのオンナのテリトリーや。 相手の正体もようわからん上に勝手もわからん場所でのケンカは、あまりにも分が悪い。 どこにも逃げられんのならハラ括って対峙もするが、他に手があるならそっちを選ぶべきや。 無茶と無謀は違う。 引く時に引けんヤツには、大事なオンナ1人護る事なん出来ん。 「和葉」 「何?」 薄暗い松明の灯りとペンライトの小さな光では充分な明るさが得られんから、走るとは言っても精々が小走り程度や。 会話に不自由する程には息は上がらん。 「オマエ、ここにはどうやって連れて来られたんや?」 「アタシは、あの部屋で何かに思いっきり引っ張られて、気が付いたら鏡だらけのヘンな所に居ったんよ」 「鏡だらけ?」 「うん」 和葉の言う鏡は、マジックミラーみたいに向こうが透けて見えるモンらしい。 それが壁一面に嵌め込まれとって、部屋にあった鏡や人形の目を通して邸ん中を映し出しとったと。 和葉が消えた部屋には、大きな姿見があった。 オレが引っ張り込まれた時には、目の前に人形がおったし鏡の裏面にいた。 キーは『鏡』か? さっきあのオトコと離れた場所には誰もおらんかったが、脇道もない1本道やったから、そのまま進む。 ごつごつした岩肌の一方が滑らかになった場所に出た時、少し先にあのオトコの姿を見付けた。 痛そうにハラを抱えとるが、オレが思った程にはダメージを受けとらんようや。 「おい!」 オレの声に驚いたんか反射的に逃げ出そうとしたオトコのザンバラ髪を引っ掴んで、引き戻す。 ついでに思いっきり脛を蹴りつけた。 オトコが、声も上げずに足を抱えて蹲る。 人間にとっての弱点は、コイツにとってもそれなりに効くらしい。 和葉は、最初にこのオトコ見た時みたいに気ぃ失ったりはしとらんが、繋いだ手が震えとるんがわかった。 「出口はどこや!?」 「……それは、言えませんな」 オトコのセリフに、またオレん中で何かがぷつんと切れる音がした。 オレら使って勝手なルールで遊んどったクセに、負けを認めんと悪足掻きして、まだ和葉を恐がらせとる。 オレの頭ん中から容赦や手加減て単語を消すには、充分やった。 「和葉、ちょお目ぇ閉じとけ」 繋いだ手を引っ張って、和葉を背中に回す。 後ろからはあの不気味な気配が追って来てたが、和葉は素直に従った。 「出口はどこやて訊いてんねや」 脛を押えて蹲っとるオトコの髪を掴んで、無理やり立たせる。 口を開こうとしないオトコを、壁に叩きつけた。 ごんっと鈍い音がしたが、滑らかな岩肌やと大してダメージはない。 「オレが大人しゅう訊いとるうちに答えろや」 「……言えませんな」 「フン、せやったら、コッチも勝手にさせて貰うわ」 オトコを引き倒してハラを踏みつけると、ポケットからサバイバルナイフを引っ張り出した。 「ケリが効いとる言う事は、こんなモンでもそれなりに効果があるやろ。実はな、この『遊び』とやらが始まってからずーっとイラついとってな、ストレス発散しとうてしゃーないんや。ここから出られんのやったら、オマエ使って晴らさせてもらうわ。丈夫そうやから、長く楽しめそうやし。ついでに、邸ごと消し炭にして、あの人形たちも道連れにするか。そんくらいの事やったら、手持ちのモンだけでも充分に出来るしな」 「……人間のする事ではありませんぞ」 「何や、知らんかったんか?この世の中で一番恐くて残酷なんは『生きとる人間』なんやで?」 サバイバルナイフの重さを量るように片手で弄びながら、足の下のオトコに笑って見せる。 思い当たる節があったんか、オトコの目に怯えが浮かんだ。 「出口はどこや?」 「それは……」 オトコの怯えた目が、滑らかな岩肌の少し先に向かう。 そこにあったんは、松明の炎を鈍く映し出しとる鏡。 大きさも形も違う鏡が幾つも岩肌に埋め込まれとって、その先に何十と繋がっとるようやった。 「鏡?」 「あ、アタシが連れて来られたところや……」 『鏡』に反応したんか、オレの背中から顔を出した和葉が奥を指差した。 「『鏡』が全てのカラクリやったってワケか」 観念したんか、オトコはオレの足の下敷きになったまま、大人しくなった。 「出口はどこや?」 「……鏡ならどれでも、邸に通じております。けれど、そう簡単には出られませんぞ」 「そんなん、アンタが案内すればすむ事やろ?」 オトコの脇腹にケリを入れて、立つように促す。 ふらふらと立ち上がったオトコが、よろよろと歩き出した。 オレらを追って来とる気配は、息遣いも感じ取れるくらいに近づいとる。 松明の灯りが、滑らかな岩肌にそいつの影を薄く落とした。 |