「 CHESS 」 |
notation 07 |
「 queen side 」 |
いつしか和葉は、探と会っている時間が楽しくなっていた。 今では本屋で出合うのではなく、きちんと約束を交わして待ち合わせているほどなのだから。 さらに和葉が専攻している学部は探の学んでいるものと近く、専門用語などを教えてもらったりと少しづつ一緒にいる時間が長くなっていたのだ。 「探〜〜、ここも分からへ〜〜ん!!こっちも〜!そっちも〜!」 和葉は指定席となりつつある、イギリスらしいお洒落なティールームの窓際でテーブルに突っ伏した。 「少し休憩しましょう、和葉。今日のオススメは、イングリッシュプディングのラズベリーらしいですよ。」 読んでいた本に愛用のしおりを挟み、探はガラス製のベルを鳴らした。 2人がお互いを名前で呼び合うのには、出逢ってからさほど時間は掛からなかった。 イギリスは本来、ファーストネームで呼び合うお国柄である。 周りにいるほとんどの人間が気軽に名前で呼び合っているのに、日本人だからと”くん”とか”さん”とかを付けて呼び合っているのが可笑しくなったのだ。 探の、 「”さん”を外してもよろしいですか?」 と言う問い掛けに、 「ええよ。あたしは〜え〜と・・・」 笑顔で答えて思案顔の和葉。 「探と呼んで下さい、和葉。」 「ええの?」 「僕だけ、”和葉”では可笑しいでしょう?」 「そうやね。ほな、”探”って呼ばせてもらうな。」 和葉は探の名前を口にしてから、照れた様に笑った。 「何や照れるわ。男の人の名前を呼び捨てにするなん、平次以外したことなかったから。」 「それは、光栄ですね。」 探は大げさに手を胸に当てて、一礼した。 「しかし。あなたはもうすでに多くの男性をファーストネームで呼んでいると思うのですが?」 「へ?」 探の含み笑いに、和葉は首を捻る。 「クラスメートとかを何と呼んでいるんです?」 「ウィリアムとかアーサーとかやけど?」 「それは違うのですか?」 「あっ!そやったわ!」 今度は和葉が大げさに驚いてみせた。 「やけど〜なんやろ・・。こっちの人の名前って呼び捨てしてるいう気にならへんのやもん。」 「確かにそうですね。彼らの名前は親しみ易くて、呼び易いですからね。」 「そやろ?やけど、探はそうちゃうやん。」 「それは、僕の名前は親しみ辛いと言うことでしょうか?」 探は少々ご機嫌を損ねた様だ。 「ちゃうちゃう!そうやないって!探は日本人の男の人やん。普通、呼び捨てにはせぇへん言うてんの。名前はめっちゃ親しみ易い思うよ!ほんまやて!」 和葉はなぜか必死で、言い繕っている。 「ふっ。本当にあなたは面白い人ですね、和葉。」 楽しそうに笑われて、 「あたしのことからこうたやろ!」 やっと自分が揶揄れたことに気付いたみたいだ。 「もう絶対に、何て言うても”サグル”って呼び捨てにさせてもらうんやからね。」 「喜んで。」 2人はお互いの顔を見て、同時に笑った。 この時から、お互いの名前を呼び合う様になったのである。 運ばれて来たプディングと紅茶を楽しみながら寛いでいると、探の携帯が静な音を立てた。 探が遠慮がちに携帯をポケットから取り出すと、和葉は笑顔で頷く。 この音が何の音なのか、ここ数回の経験で和葉には理解出来たのだ。 「分かりました。これから、そちらに伺います。」 探は通話相手に承諾の意を伝えると、電話を切った。 「いってらっしゃい。がんばってきぃや。」 和葉は笑顔で送りだそうとするが、その瞳が探にはどこか淋しげに見えた。 「和葉はどうしますか?もうしばらく、ここに居てもいいですよ。フロントには僕から言っておきますから。」 「そやけど・・」 ここは会員専用のラウンジ。 もちろん入会しているのは探であって、和葉は彼のゲスト扱いなのだ。 喧騒に邪魔されることの無いこの場所を、探は愛用している。 ゆっくり読書をしたい時や、知的な会話を楽しみたい時などに。 それにこういう場所は色々な情報を集めるのにも有益だったのだ。 そんな、よほど親しい友人でなければ連れて来ない場所に、探は何の躊躇いも無く初めから和葉を招いていた。 一緒にいてもいつ呼び出されるか分からない自分が、どこか何かに怯えている和葉を知らない場所に残して行きたくなかったのだ。 ここなら、探が頼んでおけば彼女を安全にアパートまで送ってくれるから。 「ここに居て下さい和葉。必ず1時間で戻ります。」 多分、申し出を辞退する言葉だったろう和葉の声を遮って、探は早口に言い切った。 探はなぜか今日は、このまま和葉と別れる気にはなれなかったのだ。 だから、和葉に何も言わせないうちに部屋を出て行ったのである。 「あ〜あ、行ってもうたわ・・」 残された和葉は最後の紅茶を飲み干して、ゆっくりとカップをソーサーに戻した。 ・・・・・・・・・・・探は約束を守ってくれる・・・・・・・・・・・ まだ約束を交わして会ったのは数回だけれど、探は一度も反故にしたこともなければ時間に遅れたことも無い。 ・・・・・・・・・・・こんなんもええなぁ・・・・・・・・・・・ 和葉は窓から差し込む日差しに、安心しきった子供みたいに微笑んだ。 白き光に包まれた彼女だけの聖域で。 |